阿賀野市安田地区の歴史

阿賀野市は阿賀野川と五頭山に囲まれ、豊富な水とゆたかな土に恵まれた土地でした。地形も平たく、広い田んぼを作ることができたため、阿賀野市ではおいしいお米がたくさん取れたのです。そのおかげで、阿賀野市では「豪農」が多く栄えました。阿賀野市の旧安田町に栄えた「豪農」の名家の一つが、「旗野家」です。

旗野家は代々、この土地の名家として知られていました。旗野家は子弟の教育に力を尽くし、優秀な人材をたくさん輩出しました。そのうちの一人が、旗野美乃里です。

旗野美乃里は明治8(1875)年、旧安田町に生まれました。大きくなった美乃里は熱心に勉強をして東京に渡り、東京専門学校(のちの早稲田大学)を出ました。学校を出た美乃里はヨーロッパ各国に視察に出かけますが、そこで、外国の人の体格のりっぱさを目の当たりにし、ショックを受けます。「我々日本人の体格は、外国人に比べて、なんと見劣りのすることか!」美乃里は「日本人の体格を変えよう。まずは食事からだ。牛乳を生活に取り入れるのがよいだろう」と考えました。そこで、外国から牛を買って、地元安田町に戻り、酪農を伝えました。(ツベタ牧場)

美乃里の酪農の試みは残念ながら失敗してしまうのですが、このとき酪農を伝えてくれたことが、安田町の転機となったのです。

阿賀野川に近い安田町は、阿賀野川の峡谷から起こる強い風が吹き出してゆく土地でした。安田を通って出てゆくことから「安田ダシ」と呼ばれたこの風は、作物を落としたり傷つけたりしてしまいます。安田町生まれの小野里誠助は、東京で農学を学んだのち、地元で農業を教えようとしましたが、この「安田ダシ」に悩まされました。「この地は農業には不向きだ。しかし…旗野美乃里がかつてこの地でやった“酪農”なら、できるのではないか…?」酪農に活路を見出した小野里誠助は、安田町に酪農を根付かせようと町の人たちを説き伏せ、大正9(1920)年、「六野瀬畜牛組合」を発足させました。

同じく安田町に生まれた神田豊松が、牛の飼育に情熱を燃やし、小野里誠助と一緒になって働きました。安田町以外にもほうぼうへ出かけて、牛のお産や病気の世話をしたので、「牛の神様」と呼ばれたほどでした。この牛の神様が、「みるぱすジェラート」で話題になった、今の神田酪農の創設者です。

かくして、熱意ある人々の手で育まれてきた、旧安田町の酪農。しかし、戦後に思いもよらぬことが起こりました。酪農の生産調整です。「一生懸命絞った牛の乳が、生産調整のため捨てられてしまう。酪農家の想いをもっと大事にできないか、どうにかこの牛乳を有効に活用できないか…」そう思った安田町の人々のうち、志がある者たちが集って、この牛乳をヨーグルトに加工しようと考えました。そこで昭和62(1987)年、発足したのが「安田牛乳加工処理組合」。これが、今の「ヤスダヨーグルト」になりました。

このように、安田町の気候風土の条件を乗り越え、時代の流れを乗り越え、情熱を燃やした人々がいたからこそ、今の阿賀野市の酪農があるのです。